■COVID-19 #1 不可避の距離
僕たちは今、未曾有の危機に直面している。
本当にそうなのだろうか、というところから考えてみたい。
COVID-19というひとつの災害?は、その被害それ自体よりも、それによって可視化されてしまった、僕たちの時代のLife(生命観/生活スタイル/人生)にこそ何かを考える意味があるように思う。
人間は、遠くにあるものを美しいと思う。業火に燃える太陽を、古来人間は神として崇め、無骨で穴ぼこだらけの月をなめらかで完全な球体として愛した。人間という生物種は世界と直に交わる代わりに、モノを遠ざけることによってその存在を記号化し、理解可能な対象として、いわば人間の身近なものとして扱おうとしてきた。
言葉や物語は、生々しい現実に距離を取るための人間が生み出した工夫だった。命を殺してエネルギーに変換する行為を食事と呼び、肉体が滅んだ死後の世界を天国として物語った。あまりに距離のない対象は恐れをもたらす。まして、人間の内部にあって視えない生物、極小で空気中に漂うウィルスは、人間の「距離」に対する慣れ親しんだ感覚を狂わせる。
いま世界の人々はsocial-distanceという標語を掲げ、他者と距離を取っている。他者は人間ばかりではない。密集した場所の空気を避け、人々が触るモノたちには触れず、遠い場所へ移動することも避けている。
そもそもコロナウィルスがここまで世界的に感染拡大の実害と情報による混乱(infodemic)を生じさせたのは、グローバリゼーションという20世紀のもたらした交通革命と、インターネットという光速のネットワークによる情報革命に原因がある。この100年、人類は物理的な距離とコミュニケーションの距離を短縮することに莫大な労力をかけて、新しい文明とライフスタイルを構築したのだ。
(ちなみにUNWTOの2017年の資料(PDF)によれば、全世界での海外旅行者数は、1950年の時点では2500万人であったが、2010年では約9億4000万人に、そして2030年には18億人になると予想した。この予測はコロナ禍で大幅に変わるだろうが、今や地球は毎年10億人が移動する、歴史上かつてない大移動時代となった。)
ここ100年だけを考えても、スペイン風邪や2009年新型インフルエンザなど多くの感染症があったにも関わらず、ここまでの世界的な広がりが生じたのは、国境を超えた人間の移動が原因の一つになっているのは間違いない。人類は、人間がここまで移動することを経験したことがなかったし、それによって何がリスクになるかを想定していなかった。
中国の武漢で生じたCOVID-19は抑え込みが困難だった。1978年の鄧小平による改革開放を皮切りに、「新華僑」と呼ばれる彼ら中国人たちは世界中へと進出している。例えばイタリアには公式記録だけでも30万4768人(2013年)が住んでいて、イタリア中部プラトは人口20万人余のうちの3万4000人を中国人(7人弱に1人)が占めている。
もちろん中国だけではない。僕たちは今世紀、否応なく移動する他者たちと住んでいる。EUでは移民や難民の数が爆発的に増え、日本にもすでに300万人を超える移民が住んでいて、その数はますます増えていく。
COVID-19が明らかにしてしまったもの、それは僕たちがいかに、不可避的に他者たちと繋がってしまっているか、という事実だ。それはグローバリゼーションという「社会的」な距離に留まらない。今回の災禍によって、僕たちが改めて認識したのは、人間はもっと「即物的」な距離によって、あらゆる他者たちと繋がってしまっている、ということだった。
人間の身体には100兆を超える微生物が棲みついていて、近年の研究では10秒のキスで8000万の口内バクテリアが交換され、カップルは唾液中のほとんどの細菌を共有していることが分かっている。皮肉にもコロナ対策で過剰なほどに強調されることになったが、僕たちは挨拶を交わすだけで体液(エアロゾル)を交換しているのだ。