■COVID-19 #2 不可避の死(前編)
■文明の病
感染症は文明の病である。感染症を殲滅させることは、文明の否定を意味する。人類史において感染症が発生したのは、森を切り開いて生態系をつくり変えたこと、家畜を飼って動物と接触するようになったこと、交通をひらいて長距離の人間の移動が可能になったこと、都市を建設して人口密度を高めたこと、これらすべての文明の発展と共にある。感染症のない世界とは、文明のない世界にほかならない。
人類史上最悪の感染症であったペストは、中国を起源として発生し、シルクロードを経由してヨーロッパへもたらされ、航海技術によってアフリカなど世界中へと拡散した。人類は文明の発展とともに人口を増大させてきたが、まるでそれを拒むかのように感染症は死を量産してきた。
とりわけ「都市」は常に感染症蔓延の危機にさらされており、人口を減らす死の装置として機能してきた。737年、天然痘の大流行(天平の疫病)での死者は、100万人以上(総人口の1/3)と言われ、京の都には膨大な死体が転がった。ヨーロッパでも都市は人を集めて死に至らしめることから「蟻地獄」と呼ばれた。
文明が感染症による死を避けられないとすれば、僕たちは死を回避するという努力と同時に、避けがたい死を受け止める力を同時に育まなければならない。今回のメルマガは「前編」で「量としての死」を、「後編」では「質としての死」を、人間はいかに受け止めうるのかという問題を書いてみようと思う。
■COVID-19と死
人間はいったい、どれほど死んでいるのか。毎日報じられるCOVID-19による死者数に不安を感じる人は多いだろう。しかし、死の数は相対的なものだ。ふだんあまり想像しないその数を、ともかく物量として把握することがまず、「量としての死」を受け入れる第一歩だ。
COVID-19という感染症は、未曾有の危機だろうか?と第一回のメルマガで書いた。そして、そうではないと僕は考えている。ペストやコレラ、天然痘、HIVやスペイン風邪、人類はずっと感染症と戦い、これと共に生きてきた。COVID-19に関しても、僕たちは数年、もしくは数十年のあいだ、この新たな感染症のある世界で生きていくことになるだろう。
様々な感染症のなかで、人類が完全に根絶できたのは、感染者が外見で簡単に特定できる天然痘ただ一つだけであり、それにも6年の歳月がかかっている。そもそもインフルエンザの最初の大流行(スペイン風邪)は1918年であり、100年経っても未だに罹患率は高く、毎年多くの人間が死亡している。
COVID-19も短期間で収束する見込みはないことは明白だ。ワクチンが開発されても運用までには最低でも18ヶ月かかり、それが実際に医療現場の隅々まで行き渡るには数年がかかるだろう。さらにワクチンも、現段階では重症化を防ぐタイプのものの開発が予想され、完全な予防ワクチンは難しいという見方が強い。
一本鎖のRNAウィルスであるコロナウィルスは、二重螺旋構造で変異のエラーを防ぐDNAとは異なり、たびたび変異する。そのため、たとえウィルスに対するワクチンが開発されたとしても、変異にあわせてイタチごっこのように対応するしかない(インフルエンザよりは変異可能性が小さいと言われている)。
さらに、中国の最近の報告によれば、一度COVID-19に感染して回復した人も、再感染することが分かっており、抗体を獲得できない可能性を持つウィルスであることから、集団免疫の獲得という「最終ゴール」のような展望も期待は薄いと考えるほうが妥当だ。また韓国のようにある程度抑え込みに成功したとしても、グローバル世界において完全なる国境封鎖などできないため、何度でもウィルスは再来する。少なくとも数年は収束せず、状況によって数十年後もコロナウィルスは人々に感染する。つまり、僕たちはコロナウィルスを受け入れながら生きていく社会を設計するしかない。
僕たちの社会が、この現状と未来を受け入れることができていないように思える最大の理由、それは死への恐怖だ。しかし、僕たちの社会は死を受け入れなければ進めない。
死を避けるのではなく、死を受け止める想像力の更新こそが、いま最も重要な課題ではないか。もしも僕たちが死を受け入れることができずに、死を回避するためにあらゆる措置を取り続けるとするならば、文明と文化が一つずつ失われていくだろう。
社会がしなければならないのは、死者をゼロにする努力では決してない。死の数は社会の悲劇の指標のひとつであると認識することが重要である。そのために、現在の死の物量を把握することは無駄ではない。