『仏教思想のゼロポイント』(新潮社)の著者である魚川祐司(ニー仏)さんが、noteにて僕の論文『生命と意識の行為論』(下西、2015)を読んで、そこから仏教と認知科学に関する話題を展開されていた。せっかくなので、その応答的コメントを書いてみようと思う。
その記事はこちら「enactiveな軽薄さ」で、Evan Thompsonという哲学者の昨年出版された著書『Why I am not a Buddhist』(『なぜ私は仏教徒ではないのか』)に対する疑念を紹介するというものであった。
僕はおそらく、日本でEvan Thompsonの著作と論文を読み続けている少ない人間の一人だと思う。彼を弁護するというわけでもないが、せっかく仏教関係者の間で話題になっている様子なので、日本での受容にも多少なりと影響がありそうなため、せっかくなら誤解のないように面白く読んでほしいという思いから書いてみたい。
Thompsonの視点からnote記事の疑念に対して応答してみることで、仏教や認知科学、また現象学などの観点が交わりつつまた時に対立もする昨今の状況に、参考になる読解の背景を提供できたらと思う。
ロバート・ライト『なぜ今、仏教なのか――瞑想・マインドフルネス・悟りの科学』をめぐって。
そもそも『Why I am not a Buddhist』はどういう本なのか、またなぜcontrovertialな議論を呼んでいるのか、いささか複雑な文脈があるため概略を書いてみる。
昨年に早川書房で文庫化されたロバート・ライト『なぜ今、仏教なのか――瞑想・マインドフルネス・悟りの科学』という本がある。同書は、仏教のアメリカでの流行を紹介するとともに、進化心理学という近年注目される理論によって様々な仏教の教えを読み解くというスリリングな書である。ライト氏が科学ジャーナリストであることもあいまって、「最先端の科学である進化心理学はブッダの教えを支持する」といったようなセンセーショナルな筆致で書かれた本である。魚川祐司さんはこの本の解説を担当しており、そのテキストが文庫に収録されている。
さて『Why I am not a Buddhist』だが、この本は一章分がロバート・ライト氏の著作に対する痛烈な批判が書かれている。その内容は荒く要約すれば、「進化心理学は科学的に基礎が整備されていない未成熟なものなので、進化心理学で仏教思想が”科学的に正しい”と語るのはいかがなものか」というものである。
そしてThompsonは自説を展開するのだが、魚川さんはそれに「違和感(もの足りなさ)」を感じたことを先の記事で書かれている。(具体的なテキストは「有料記事」のため、引用することは控えるが)主要な点は、進化心理学を批判するThompsonが代わりに提示する「神経現象学」や「ecactivism」は、壮大な構想として魅力も感じるが、果たしてそれほど強固な科学理論なのか?という疑問である。
この疑問は、アメリカの現象学研究でこそ議論されているものの、日本では活発に展開されることは多くない。しかし僕は、科学と仏教の距離が近づき、また意識の科学や心の哲学、現象学においてもその架橋は重要な論点になっているため、重要な問題意識であると考えている。
とりわけ認知科学と現象学の関係や、個々の概念や術語については、先述の論文を参照して欲しい。今回は、魚川さんの提示した疑念(少なくとも『Why I am not a Buddhist』においてのenactivismは「軽薄」さを感じさせる)に対しての文脈にかぎって、主に二つの論点から解説と応答コメントを書いてみる。
【論点1】身体性認知科学、enactivism、神経現象学
fig. (Kazeto,2013)
身体性認知科学、enactivism、神経現象学は、相互に密接に関わる概念と方法だが、僕が論文で示した原理的な困難と実践的な課題は「神経現象学」にとりわけ当てはまるもので、enactivismそのものは、もう少し広い可能性に開かれている。
note記事で引用されていた僕の論文のテキストは「エナクティブ主義は…」という主語となっているが、神経現象学を論じる導入部分で「神経現象学はエナクティブ主義の実践的な研究プログラム」と説明した上で書いてあるので、両者はイコール関係ではないことを強調しておきたい(この点については論文の紙幅上、僕も丁寧に説明すべき点でもあり語弊が生じていた可能性もある)。
本記事では、このあたりの概念や方法の差異と関係、またその背景について解説する。
【論点2】『Why I am not a Buddhist』がなぜ書かれたのか、その背景。
本書は、仏教に関心のある方々に読まれていると思われるが、Thompsonはアメリカでは認知科学と哲学を専門とする研究者として知られており、共著論文でも哲学者らとのものが最も多い。しかしまた、Thompsonはその師F.ヴァレラと仏教と認知科学の協同を提唱した思想家でもあり、このあたりのThompsonの微妙な立ち位置が、本書の文脈を作っている。
本記事では、Thompsonの哲学的な立ち位置とこれまでの著作の来歴を解説することで、本書の書かれた背景を説明してみたい。
【論点1】 身体性認知科学、enactivism、神経現象学
Thompsonは本書のなかで、ひとしきり進化心理学の批判を書いた後、こう断言する。
進化心理学は強いエビデンスで補強されておらず、その原理的な教義は不完全である。したがって、進化心理学は人間の心を理解するために適した科学的アプローチではない。…(中略)…
では、よりよいフレームワークはなんだろうか?その答えは身体性認知科学(embodied cognitive science)だ。(pp.70-71)