今回のメルマガは、読者さんからの質問に応答するかたちで書いてみようと思います。質問が少し長めだったので、僕のほうで要約しながら書いてみます。文面は異なりますが、だいたい下記のような質問でした。
伊藤亜紗さんの『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』を少しずつ読んでいます。
本書で「空間恐怖、それへの補足物が装飾になるだろう…」というテキストが出てきます。
また、先日の僕のtwitterでこのようなつぶやきがありました。
「人は無意味に耐えられない。情報(News)は、考えることなしに意味を与えてくれる麻薬。」
これが何か結びついているような、また情報や、空白とは何だろうと思いました。
Sさん(女性)
伊藤亜紗さんの『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』は非常におもしろい本でした。僕も、詩をひとつのツール/装置として、身体を解剖するというテーマを楽しみました。さて、ご質問頂いた「空間恐怖、それへの補足物が装飾になるだろう…」という箇所ですが、引用してみましょう。
「ヴァレリーによれば、芸術は装飾から発展したものであり、装飾はいわゆる「空間恐怖」からやむにやまれず感性が生み出したものである」(p.223)
また、ヴァレリー自身の引用されたテキストも見てみましょう。
「思うに、芸術作品のあるきわめて単純で原始的な形式、たとえば麦わら編みや布織物における幾何学模様やある色の組み合わせ[・・・]作品をつくる人を面白がらせるのは、その作業なのだ。彼は退屈した人間である。空間恐怖、それへの補足物が装飾模様となるだろう。感性が耐えられないのは、時間あるいは空間の空虚、白いページなのだ」(pp.223-224)
簡単にここで言われていることを要約してしまうと、人間はもともと、なにか崇高な目的や美のために芸術を生み出したのではなく、ある意味ではなんらかの「暇つぶし」や「手慰み」のようにして装飾品を作り出し、そこから芸術が発展したのではないか、という可能性があるということです。
子供が、延々と同じ模様を描いてしまったり、暇なときになぜかノートに幾何学模様を描いてしまうという、あの現象ですね。しかし問題は、何の気なしにやっている暇つぶしのお絵かきの背後には、人間の本質的な世界に対する恐怖が隠れているのではないか、ということがここで示唆されています。
それが「空間恐怖」です。ここでヴァレリーがそれを想定していたかは分かりませんが、哲学者のパスカルは「この無限の空間の永遠の沈黙は、私に恐怖をおこさせる」と言ったことを思い起こします。
僕もこの問題には関心があって、現在執筆中の本でも、このパスカルのテキストを引用しながら空間の恐怖について書いているところです。なぜ沈黙する空間が、白いノートが恐ろしいのでしょうか。それは、そこがまだ意味に満たされず、かつ意味を私たちに要求しているかのようだからです。
真っ白なノート。さぁ、あなたはそこに何を書くのか?空白のノートは私たちにそれを問いただしてくるかのようです。あなたはそこに、何か意味のある言葉や絵を描けるのか?じっとそれを見続けると、(少なくとも僕は)無言のプレッシャーを感じます。
別の言い方をすると、真っ白なノートはあなたの自由を保証してくれる証でもあるのだから、もし真っ白なノートに恐怖を覚えるのであれば、それは自由に対する恐怖でもあります。そして実際、多くの人は自由を恐れているでしょう。
真っ白なノート、沈黙する宇宙は、人間が人間であること、あなたがあなたであることが、まだ何も決められてない空無です。私たちはそれに耐えうるのか。そんな恐怖が襲ってくる前に、そのページをなんでもよいから手慰みにお絵かきをして埋めてしまえばいい。手頃なのは、特に意味もない幾何学模様かもしれません。それは何も考えずに描くことができるし、しかもなんとなく綺麗で私たちを安心もさせてくれるでしょう。
落書きとは、人生の意味をつきつけてくる無限なる沈黙に対する、私たちのささやかな抵抗だったのです。