「私たちはたいていの場合、未来をまえもってきまった形として描き出し、それへの「期待」のうちに生きつつ、現在をそのための手段と化している[…]そうなればもう、一方では未来が既定性を帯びて未来固有の空白さが覆われ、他方では現在の瞬間それ自体のかけがえなさも失われ、かくして時間は一本の線のようにあらゆる脱自性を欠いて、不安も自由も決意も創造もすっかり見失われてしまうだろう。」
─竹内芳郎『サルトル哲学序説』
生の無意味さに耐えることほど残酷なことはない。この一日はいったい何のためにあるのか。あてどないこの朝はどこへ向かうのか。ぽつぽつと時が訪れ、あるいは急激にうねり、あるいはまた緩慢とした時が流れる。どうしようもない悲劇は突如として訪れるばかりでなく、飽くるほどの茫漠とした時もまた突如としてひらかれる。
僕たちがこの神様のいたずらのような不規則な時間の流れを拒絶しようと思ったら、とっちらかった時間を一本の線に整頓するしかない。そうして人間は生きてきた。生が空っぽだからこそ、自らその意味を埋めていくのだとサルトルは言った。それが、実存主義と呼ばれる思想のはじまりだった。
しかし、がらんどうの生を埋めるのはそう簡単ではない。無理やりに詰め込んだ意味は究極化し、私たちの生を逆に縛り付けてくる。過剰に意味と目的を設定した未来に余白はなく、もはやそれは未知でもなく規定された現在の延長でしかない。また逆に現在の瞬間は、決められた未来への準備期間と変貌し、いま目の前にあるリアリティは剥奪される。
空白の未来を糊塗するために、すべての現在は使われる。そうして私たちの時間はこわばって息詰まる。語りかけ、対話し、また時に脅かすあの時間は、生命を失った亡骸のように、微動だにせずに鎮座する壁となる。
サルトル研究者の竹内芳郎は、『サルトル哲学序説』のなかで、このように続ける。
「あらかじめきめられた超越的目標を未来に指定する目的論のかたちをとった理想主義、一定の価値規準を想 定して各時代の発達程度をはかるいわゆる「進歩」の思想、しかじかの社会がかならず到来するときめこんで安心している歴史的必然観――これらはみな、空白な未来に面接する実存の不安を糊塗するための組織化された試み以外の何ものでもない。」